「訓読」は、単なる日本語史のなかのーエピソード、あるいは古典漢文理解の技法としてのみ議論すべきではなく、文化理解、文化受容の本質に深く関わることから、(文化の翻訳〉の現場に生起した現象としてとらえられるべきである。東アジア世界が本来(文化複合〉的に成立したという視点に立っとき、翻訳の課題としての「司II読」論は、東アジア知識社会の成立、そして「東アジア」そのものの成立の議論に関わってくるだろう。
日语学习与研究
2012年2期